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映画【アメリカン・サイコ】 感想と考察

作品名:「アメリカン・サイコ

公開:2000年

監督:メアリー・ハロン

 

 

自分の解釈にあまり自信がないのですが、読んでいただけたら嬉しいです

 

主人公はパトリック・べイトマンという27歳の男性です。彼は裕福な家に生まれ、ハーバード大学を卒業し、現在は父の所有する投資会社で副社長を務めています。

さらに、ルックスがよく趣味も良いので彼の周りには常に人がいます。

パトリックは誰もがうらやむようなエリートでした。

そんな彼ですが、心には殺人衝動を抱えていて、おそらくそれまでの人生でも抑えきれなかった瞬間が何度もあるみたいです。

 

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しかし、彼は殺人描写が無くても人を人とも思っていないような言動をとるので、すぐ人でなしだとわかります。そして人でなしはパトリックだけではなく彼の同僚、婚約者、愛人も同類だと思われます。

 

彼らは、周囲の人間に対する本質的な関心を持っているように見えません。口を開けばスーツのブランドやレストランの評判、名刺対決など、薄っぺらい会話ばかり。

 

ちなみに、私はこの映画を見て内輪向きな感じの会話を見せ続けられるのが苦手だと気付きました。

(けれど、芸人さんのトークやモノマネなど自分が知らなくても楽しく見れる内輪向きネタもあって、それらは大好きです)

ある意味、この内輪向き感を不快に描いているのも作者の戦略かもしれないですね。

 

 

ある日パトリックは、自分に引けを取らないルックス、学歴、センスを持つ同僚のポールを酔わせて自宅で殺害します。

 

殺人衝動がピークに達していたのもありますが、私は、パトリックはポールの存在が自分と重なることに内心危機感を持っていたのだと思います。

これは、あのコミュニティを構成している人間はみんな代替可能だということを表していると思います。パトリックはポールと比べられたとき、同僚たちは自分ではなくポールを選ぶのではないか、と焦りのようなものを感じたからポールを排除したのではないでしょうか。

 

パトリックは彼自身が意識していないかもしれませんが、日頃から孤立に対する恐怖を抱いているように見えます。

そして同時に孤立した人々への軽蔑も持っています。

パトリックに話しかけられた娼婦やホームレスは、初めは彼が自分を恵んでくれるのではないかと期待し羨望のまなざしで彼を見つめます。

パトリックにとってその露骨な視線が、憎たらしくてしょうがないのでしょう。彼は出会った娼婦やホームレスを高確率で殺害します。(単に犯行がばれにくいからかもしれませんが…)

 

 

 

中盤でパトリックは秘書のジーンを家に招き、彼女を殺害しようとしますが、その瞬間婚約者からの電話がかかってきたことで断念します。

ジーンはパトリックがまだ婚約者と関係が続いていたことを知って悪く思ったのか、彼に自分は帰るべきか聞きます。

パトリックは「君を傷つけるかもしれない」と言ってジーンを帰しました。

その時のパトリックの表情からは、殺せなかったつまらなさ以上の何か虚しさや悲哀が感じられます。

 

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あの場面だけは、パトリックは己の殺人衝動と戦い苦悶しているように見えます。

この葛藤が垣間見えたのは、ジーンはパトリックに対して唯一、本質的な関心を持ってくれていた人物だったからだと思います。彼女はパトリックの人格を最大限に尊重し、彼の婚約者に対しても配慮していました。

 

 

 

その後、パトリックはポール失踪の件で現れた探偵の捜査も華麗にかわし、さらに殺人を重ねていきます。らせん階段からチェーンソーを落として娼婦を惨殺し、その光景を思い出しては手帳にスケッチ。

そして衝動に駆られたある日、ついに市中で無差別殺人をしてしまいます。

この場面での警察との銃撃戦描写は明らかに非現実的で、妄想説が出るのもわかりますよね。

 

 

ラストでパトリックはついに同僚に自身のした殺人を打ち明けますが、誰からも信じてもらえず、事件は存在しなかったかのように扱われます。

 

この結末は、人間の他者への無関心さを表しているというのもあります。

しかし、それ以上に人間の利己的な部分を映し出している気がします。それは以下のシーンから考察できます。

 

パトリックは死体を隠していたポールの部屋を訪れますが、その部屋はリフォームされ何事もなかったかのように新たな入居者を探していることがわかります。

それ以前、パトリックは初めてこの部屋に入ったときにポールが自分よりも良い部屋に住んでいると思ってびっくりしています。

つまり、それだけ高級な物件であるがゆえ家主は事故物件ということを隠し、価値を損なわないでまた売り出そうとしたのではないでしょうか。

 

こういった利益重視の目線でラストを見ると、このような考察ができると思います。

 

周囲にとってまだまだ利用価値があったパトリックに、その価値が損なわれぬよう世界全体が彼の罰を回避させたのはないでしょうか。

しかし、周囲の同僚などでパトリックに媚びたり、たかるような人はいませんでした。

おそらく、この場合の利用価値というのは自分の所属している集団を少しでも大きくて豪華な物のように見せてくれる存在、というだけのものだと思います。

彼らにとってその価値が損なわれることは殺人という事実よりも重大なのです。

そしてパトリック自身も、その集団が強そうに見せるためだけに必要な、その程度の存在だったのです。

 

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誰だって、他者の人生からしたら所詮モブキャラでしかありません。

パトリックは自分が世界の中心であり、周囲は自分に関心があると思い込んでいたように見えます。だからこそ、実態を見せたら周囲が失望してしまうと信じて、その殺人衝動を隠していました。

 

そして最後に、パトリックは自分が真の孤独であることを悟ります。

 

 

ただ、その前に秘書のジーンが彼のデスクから見つけた手帳の中身を深刻そうに見つめている場面が挟まれます。

パトリックのこれまでの人生において、ジーンの存在はただのモブキャラにすぎなかったと思います。(行為中に鏡に映る自分の姿に惚れ惚れしている様子を見ると、彼にとって自分以外の人間は全員モブキャラだと思っていそうです笑)

逆にジーンは彼に興味を持っていたので、そこから親密な関係に昇格しようと努力していましたね。

そして、彼女だけはパトリックに本質的に興味を持ち、向き合っていました。

おそらく、パトリックを真の孤独から救い出してくれるのはジーンだけではないでしょうか。

あの場面で、映画にとってもパトリックにとってもモブキャラであるジーンを殺さず生かしたのは、その役目が残っていたからだと思います。

 

(しかし、ジーンが事実と向き合った時、パトリックに強いられるのは償いです。現実的には彼は極刑を免れないでしょう。)

 

 

 

 

殺人がすべて妄想だとしたら少しつまらなく感じるし、重みが無いですよね。もちろん実際に殺人をしていたとなると辻褄が合わないところが多くて困りますが…

 

しかし、これだけ話題を生んで、見た後は考えさせられる映画ほかにはないですよね。

私はいまいち理解しきれていませんが、大好きな映画のひとつです。ぜひこの結末については議論したいですし、よければコメントください!

 

拙い文章ですが、読んでいただきありがとうございました!😊